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清水越道の歴史概略

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上州と越後を結ぶ最短の峠道として利用されてきた清水越えの道は、直越(上杉記)、馬峠(新編会津風土記)、直路(伊佐早文書)とも呼ばれていました。

清水越えの路がいつから使われていたかは定かでありませんが、南北朝期に越後の上田庄等を治めていた新田一族が直路城(清水城)を創築したと伝えられ(塩沢町史)、三国峠と共に清水峠も軍事的要衝としての利用があり、土着の住民等の利用を考慮すると大変古い歴史が感じられます。

清水越えの記述が文書に残っているのは天文21年(西暦1552年)からで、関東管領の上杉憲政が北条氏に追われ、春日山の長尾景虎(後の謙信)に身を寄せながら、上杉勢の越山(関東出陣)に備え上田庄の長尾政景に山中(直路)の整備を命じています。尚、上杉謙信の越山は全て三国越えが使われ、清水越えは少数の斥候部隊が往来しました(伊佐早文書、双林寺文書)。

当時、上杉勢が盛んに利用したのは清水から清水峠を通り粟沢に抜ける道であり(粟沢には寺林砦址が存在)、湯檜曽谷を通る利用はその後に御館の乱での北条勢の侵入口となったり(塩沢町誌)、織田信長配下の滝川勢に追われた沼田城代藤田能登守が夜半に清水峠を越えています(管規武鑑)。

江戸時代に入ると幕府は清水越道の往来を禁じ、湯檜曽村(安部儀兵衛)と清水村(安部弥左衛門)に口留番所を設け、条目を定めて近隣住民のやむを得ない用事以外全て通行を止めました。そして、それは明治元年まで継続されました(阿部和義家、阿部光次家文書)。

江戸時代末期の天明の大飢饉をふまえ、当時利用されていた越後、庄内の米を北回り船(竜飛岬経由)や西回り船(下関経由)で江戸に運ぶのでは経過期間が長く品質低下や座礁による損害発生が度々起きるので、最短の清水・粟沢間の古道を整備して運搬しようとする江戸の商人たちが現れ、踏査調査を繰り返し、幕府へ開削許可申請を行いました。また、沼田藩や会津藩も申請を行ないましたが、戊辰の役直前だったこともあり、採り上げられる事はありませんでした(糸之瀬村誌、本田夏彦文書、土岐家文書)。

明治3年には江戸時代末期の開削運動の必要性が広く認識されていたこともあり、東京府等による測量、一部工事が行なわれ、明治6年に熊谷県令河瀬秀治が開削を決定、翌7年10月に幅6尺、距離7里17町余の山岳道路が完成しました(阿部幸久家文書)。かつての古道は清水越新道として蘇り、民間の陸運会社の進出により沼田分社や真庭、上牧、小日向、湯原、湯檜曽に継立所ができ、一ノ倉沢出合や武能沢出合、白樺尾根上部に休泊所が設置されました。これにより物資運送、旅客の利便が図られたのです(小日向区有文書)。

日本海側と太平洋側との輸送拡大のみならず当時の外交状況も後押しし、道路整備政策が政府によって進められ、明治11年に政府は新たに清水越えの馬車道建設構想を打ち出し、測量等調査が始りました。そして、明治14年4月に内務省は高崎、長岡間に馬車道を建設することを決定。6月には工事着工となりました(塩沢町史)。古馬牧村誌によると、6月16日に地元村々に工事への人夫割当があり、一週間交代で100日間といった協力が求められています。土地の献納も盛んに行なわれましたが、基本的には路線幅員取広時に地価の3分の2を献納、3分の1は代金が支払われました。

そして、明治18年2月に国道8号と認定され、8月には4年の歳月と工費35万円をかけた道幅3間の山岳道路が完成し、9月7日に開通式が峠で行なわれました。参列者は北白川宮殿下をはじめ、山県有朋内務卿、三浦悟楼陸軍中将、揖取素彦元老院議官、林有造元老院議官、山田顕義内務司法秘書書官、三浦通傭土木局長、佐藤与三群馬県令、篠崎五郎新潟県令、その他関係官公署長等総勢200人でした(本多夏彦文書)。

旅客や物資輸送拡大の為、塩沢村の鈴木文次郎は馬車会社を設立するなど興隆の兆しが見えましたが、11月から翌3月まで通行休止であることや、開通後2ヶ月して道路の崩壊が起こりはじめ、維持管理が極めて困難な状況が続き、大きな期待と多額の予算を費やした国道開発でしたが、ついに明治21年には通行不能の状態になってしまいました。

逞しい運輸への商機の志は地元の有志により継続され、六日町の佐藤良太郎が新潟側の追分から国道と離れ従前の新道を整備し、登川分岐からは井坪坂を登る道を開削して上部の国道に通じ、清水峠に至るコースを有料道路として明治23年から運営をはじめ、通行料1人2銭、牛馬1頭3銭を徴しました。また、兎平には宿泊茶屋3軒が設けられました(塩沢町史)。新道と国道を併用した峠道は賑わいを見せ、明治24年の水上村における貨物旅客数は、往復旅人で9135人、出入貨物4808個を数えました(町誌みなかみ)。当時の状況が判る絵図が岡村貢(民間会社による上越線敷設計画を立て運動を興す。その一環で描く)により描かれており、一ノ倉出合付近に2軒、武能沢出合付近に4軒、白樺小屋付近に4軒の施設があったことが判ります。

明治26年に国有鉄道の信越線が開通すると、三国街道とともに清水街道も急激に貨物旅客数が落ち込みました。そして、宿泊茶屋等は明治41年頃には閉店してしまいます(塩沢町史)。

その後、大正9年4月に清水越国道8号は県道に降格なり、また、昭和45年4月には地域振興、観光道路として清水越の県道は前橋と小出間の国道291号に生れ変わったのです。その後、昭和57年には前橋―柏崎間に延長されました(群馬県史)。しかし、峠付近は静寂に包まれたままで、地図上では点線で表される国道として現在に至っています。

新潟県側に登川とその支流丸ノ沢との合流点付近から、峠に向かい謙信尾根(十五里尾根)がありますが、この謙信尾根の名称は昭和初期の上越線工事に絡む送電線工事の鉄道省関係者が呼び始めたものです(日本山岳会報)。

一登山者としては、清水越え道の整備はもとより峠に有人の山小屋があれば馬蹄形縦走や峠道のトレッキングで賑わいを見せるのではと考えます。

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