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谷川岳について

谷川岳周辺の秋田マタギについて

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※以下記載した文については、筆者が谷川岳山岳資料館に所蔵されている蔵書より考察したもの

考 察

  「マタギ」については幾多の文献で紹介されているが、高橋文太郎著の“東日本における狩猟者とその狩猟”が詳しい。特に東北地方の秋田マタギの活躍が際立ち、資料にあるとおり北関東や信越県境では明治時代まで活動し、一部土着者もいた。そうしたことから狩猟のみならず山村生活へも深い交流が生まれ、独自の狩猟文化が継承されている。

みなかみ町内に拠点を設けて利根川源流域や谷川連峰周辺を狩猟した形跡は確認できず、桧枝岐や清水、秋山郷に仮住まいを設け活動していた。特に秋山郷にいた秋田マタギは、古くから湯治場として栄えていた草津温泉へ、険しく道無き道を踏破し獲物を売りに行っていたことも興味深い。清水の古絵図には、檜倉乗越、涸沢(柄沢)乗越が描かれ利根川水源域に最短で入れたようである。清水越えや毛渡乗越も利用されたようである。山言葉はここでは参酌しないが各地域の方言と対査してみると面白いと考える。

 

東日本に於ける狩猟者とその狩猟 ―越後赤谷村探訪を中心として― 高橋文太郎    資―1

                                  山岳第32号第1号 1937年11月30日

1、系統と文書=日光系統と高野系統があり、秋田マタギは日光系統シゲノ・アヲバ・サルマ等の流儀と共に、獣への引導だけは特に弘法大師からの教授としている。高野系統にはコダマ流儀があるとのこと。また秘巻が作られ、北魚沼郡湯之谷村にアオバ流、桧枝岐村にサルマ流、只見の田子倉にはナンバ流、九州の山村椎葉また西米良に巻物「西山小猟師一流」が発見されている。

2、狩猟者その他に関する山神=北蒲原郡赤谷村→山の神が田の神になる。旧暦2月16日に山から下り旧暦10月16日に山へ還る。炭焼きも同じ。

3、山言葉=狩猟圏という一つの任意な選択による仲間の結成に於ける狩猟を中心とした特殊用語であり、用いる心理には比較的厳粛な気持が入っているようだ。言葉の限定と共に行為の制約が現される。アイヌ語と同じ発音のものが幾つか拾え(金田一京助)、日本語としての古い言葉の混入が考えられる。

4、マタギという語=特に秋田北部、津軽で狩猟者をそう呼ぶ。その他の地方でもそう呼ばれ、アイヌ語のマタッポの條に「マタッポ古くマタブリ、マトリとも言い、股になった木を持ち歩いた。」があり、その例は多くマタギの名の起りは多分これだろう(柳田國男編山村語彙)。赤谷村の山言葉の中に棒を神枝。アイヌ語に「マタギ行く」がある(知里氏談 金田一京助)。→股木説

 

ブナ帯と日本人 市川建夫 講談社 1987年12月20日                     資―2

森の海の漂流民

日本における狩猟集団の特色は東北地方のマタギであろう。独自の儀式を営み、山に入って500にのぼる「山ことば」と呼ばれる隠語をつかい生活。首領を中心とする階層的な組織は、厳しい自然の中での狩猟生活では欠くことができないもの。阿仁をはじめとする秋田マタギの南限は北関東や信越国境まで500㌔に達する。カモシカの呼称は下北から北関東・信越国境あたりまでは青獅子、秩父・佐久では岩鹿、フォッサ・マグナ以西の内帯にあたる飛騨・木曽山脈や白山では嵓獅子、外帯に属する赤石・紀伊・四国・九州の山地ではニクと呼ぶ。ニクの語源は不明。構造線により四つに分かれ、狩猟集団のもつ文化圏と一致していることは興味をそそられる。

 

登川奥各ピークと沢の名称に就いて 藤田喜衛 山と渓谷第15号上越特集         資―3

 奈良沢、八木沢等を中心にして利根川右岸一帯は、古来秋田猟師に依って開かれた。地名考証も上越二国の方言を以ってしても、なお解しかねるもの往々ある。

秋田猟師の利根入りの最初は年代的には不明瞭だが、清水村の書上等に依っても古い。その影響は熊狩の方法に大きな変化を与えた。清水の古老は彼らが最後にこの土地を去ったのは明治14,5年の頃だった。

コツナギ沢の上流、アヅマ山の山脚の「越後越路の段」は秋田猟師が命名。

 

平家の谷 秘境秋山郷  市川建夫 1961年2月28日                      資―4

 鈴木牧之 北越雪譜(文政11年―1828年) 秋山紀行 秋田マタギの夜語り

―牧之は9月10日~12日に、湯本(切明)でマタギが長屋を借りて猟をしているのを知り、一晩話を聞いた―

秋田城下より三里東方の山の中から来た者。草津温泉へ熊や岩魚を売りにいっている(鹿や熊は皮を剥ぎ塩漬けにした肉や毛皮を売る。岩魚は1回に数百匹担いで行く)。行程は13㌔で和名方面から入り、道の無い厳しい谷あいを通り入山をぬけ草津へ。

獣を扱うので蚊はいないが虱がすごく、小屋外の川原で寝た朝、枕元辺に数十匹の狼が通った足跡があり肝を冷やした。

昭和28年頃、77才になる猟師は大赤沢に住みついた秋田マタギの4世。14才から猟に出た。苗場・鳥甲山・志賀高原の発哺温泉・野反・赤湯(苗場下)まで出猟。現金収入の目的より熊と命を賭して闘うことを最大の喜びだった。

 

山村の風俗と暮らし 都丸九十九 1959年6月15日                        資―5

群馬県内には秋田県その他のマタギの集団はなかった。上越国境近くには近年まで秋田マタギが峯伝いにやって来た。藤原では越後の猟師(清水のマタギか?)が主に熊射ちに来ていた。

近年の年代不詳。

 

町誌みなかみ  猿集団への猟  1964年8月15日                        資―6

明川の中島団次談

明治から大正にかけわざわざ猟師がやって来て猟をするので、藤原のものも団結して猟をした。

 

只見町史第3巻 民俗編 1993年3月31日                             資―7

秋田マタギと狩猟民族

 塩ノ岐の八塩田目黒家祖先は秋田マタギで、天正の頃土着。黒谷入の倉谷はマタギ集落で黒谷川上流に「秋田衆小屋場アイ(表層雪崩)により飛ばされる→多数が犠牲になり供養碑がある。

秋田の阿仁町打当の鈴木家の絵図は黒谷川上流・会津朝日岳・丸山岳・城郭朝日山などを中心に描いている(彩色あり)。田子倉集落狩猟組の宗家の狩猟絵巻物も秋田マタギと共通したものがあり、田子倉にシシヤマの時節になると秋田マタギがやって来て、地元の猟師に仁義を通し共同狩猟をした。明治23,4年頃まで3月に秋田マタギが石伏にきて、20日ほど滞在し地元民をセコにして熊狩をした。

 

上州最後のマタギたち 酒井正保 2004年9月23日                       資―8

藤原の狩猟  他県から来たマタギ 大芦 中島作恵

明治から大正初期にかけ、桧枝岐村から15人ほどのマタギが熊猟に来た。10月末から翌春雪解けまで、山小屋で獲った熊肉などを食べ生活。熊の皮と胃だけを持ち帰り、小屋のそばに2㍍近くの動物の骨が積んであった。

越後から来たマタギは、奈良沢岳(小沢岳)にトヤ小屋を作り生活。10人ほどの集団だった。藤原へマタギの縁者がいて、地元の藤原に内諾を得て猟をした。

 

藤原風土記 安達成之・川崎隆昌 宝川温泉汪泉閣 1963年7月20日            資―9

秋田マタギや会津マタギは、桧枝岐村や只見川上流部からやって来たらしい。越後マタギは六日町五十沢のほうから山越えをして来たらしい。流儀流派を堅く守っていく彼らの社会制度(仁義)があり、大正中期まで残存したらしい。ブナの木への切りつけは越後のものが最も多い。

 

“夢に寄せる心”雪男談義 「秋田マタギが頼り」 山に生きて 小島六郎 1985年7月31日 資-10

昭和49年「第2次ネパールヒマラヤ雪男探検」に谷口正彦らが出かけた。その中に秋田マタギが4人加わっていた。アンナプルナとダウラギリとで行程1,000㌔を調査した。

 

山間のアイヌ語 金田一京助  山岳第32号第1号 1937年11月30日            資―11

津軽・秋田の山詞は共通するものが多い。また、それらはアイヌ語から転訛したと思われる。この地方の方は先住民の子孫かというと風貌が似ているとは言えない。

 

日本の名山4 谷川・妙高と上信越の名山 (株)ぎょうせい 1983年12月20日

職業登山のマタギと薬草採り

マタギは門外不出、他に見せてはならないという「山立根本之巻」「山立根本由来之事」という秘巻がある。これには狩の作法その他が記され、12世紀末に巻物になり現存。また、活躍した形跡が地名になっている。→矢場、竜間、立間、立場等

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