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谷川岳について

谷川岳に因む歴史情報

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Q:大河ドラマ“天地人”では、馬峠(清水峠付近)に居並ぶ上杉の軍勢が映し出されましたが
上杉謙信は清水峠越えを行なったのですか?
A:一度も越えていません。
全部、三国越えで越山(関東出陣・天文21年から14度)をしています。越えたのは斥候等の小部隊です。当時は清水越えと呼ばず直路、直越、馬峠越と呼ばれていました。

Q:当時の道の状況は?
A:寛文年中(1600年後半)に高田藩郡奉行により踏査された記録によると、「道幅一尺ないし二尺で、牛馬は使えない…」とあります。大部隊や大量物資運送の通行は無理でした。

Q:江戸時代には清水峠や蓬峠は利用されたのですか?
A:寛永9年(1632年)に幕府により口留番所が湯檜曽・清水に設けられ交通が遮断されました。しかし、古文書によると湯檜曽と土樽、清水村との内緒の交易はありました。

Q:謙信尾根の名がついたのはいつか?
A:上越線清水トンネル・それに伴う送電線工事の際に、鉄道省関係の人達が大正末期から昭和初期頃に“謙信尾根”と呼び始めたのが最初。それ以前は“十五里尾根”と呼ばれていた。実際にはこの尾根は二里以下の長さで、昭和6年頃の日本山岳会員の説では、上田の庄(坂戸城を中心とした地域)と上州沼田付近までの街道を言うのではないかとの考えもあるようです。

Q:清水越新道と国道8号(旧国道)はどちらが古いのですか?
A:しばらく閉ざされていましたが、江戸末期から清水越え古道が上州・越後を結ぶ最短のルートとして脚光を浴び、再開削運動が行なわれました。明治に入り東京府や柏崎県による測量や工事、そして、明治6年に熊谷県令(知事)により本格的な改修工事が決定され、翌7年に新道が完成しました。
国道8号は明治11年に政府によって、馬車道建設構想が出され、明治14年に建設決定。
同18年2月に国道8号認定。同18年8月に清水越国道(国道8号)が完成しました。
新道や国道の表現は当時の政府官報に記載されています。

Q:一ノ倉沢出合、武能沢出合、白樺尾根に休泊所が明治9年に設けられたのですか?
A:陸運会社沼田分社により、真庭・上牧・小日向・湯檜曽と共に設けられ、荷物運搬の馬等交換や宿泊、人力での運搬に活躍しました。しかし、国道8号の馬車道完成で一時廃れ、国道廃道で復活、明治26年の信越線全通で利用が極端に落ち込み(三国街道における運輸も同様)、明治40年頃に運送業は廃止されました。

Q:なぜ清水越国道(国道8号)を造る必要があったのですか?
A:日本海側の庄内や越後米等と首都圏との物流を増大させることがねらいでした
が陸軍省も積極性が見られ、列強各国の日本海側各所の開港政策に危惧を抱き、街道整備の必要性上すすめられました。(物流と軍事目的)

Q:いつまで清水越え国道(国道8号)は使われたか?
A:期待を背負った国道完成でしたが、明治21年には崩落や雪崩の害で交通不能になりました。そして、大正9年には県道に降格になりました。
この国道の一部と新道の一部を利用して明治40年頃まで馬に荷積みをした運送や人の往来はやや盛んに利用されました。

Q:国道291号はいつ出来たのですか?
A:国道として開通を望む声が高まり、昭和45年に前橋―小出間が国道291号として認定され、昭和57年には前橋―柏崎間に延長されました。

Q:上信越高原国立公園に指定されたのはいつ?
A:昭和24年です。

Q:谷川岳ロープウエイが開業したのはいつ?
A:昭和35年12月。下の駅は標高730m、天神平駅は1319m。全長2400m。平均10分。

 

【谷川岳登山に因む自然情報】
1、山名など
Q:谷川岳の名称の起りは?
A:本来は谷川の人達が谷川本谷から望む俎嵓の最高点を呼んでいたが、湯檜曽方面の人
が耳二つを谷川岳と呼び始め、昭和10年頃には一般化しました。
古くは、トマの耳を薬師岳(薬師如来が勧進されていた)、オキの耳を谷川冨士(冨士浅
間神社奥の院が祀られていた)と呼ばれていた。

Q:一ノ倉沢内の名称は何時付けられたか?
A:昭和5~6年頃、日本山岳会角田吉夫と黒田正夫、初代水上山岳会長阿部一美が相談し、
一ノ沢、二ノ沢、衝立沢などの名称を決めました。
白毛門の名称も昭和5年2月に使われていて、この頃の命名の可能性大、ちなみに明治11年に描かれた絵図には「黒沢」の山名があります。

Q:朝日岳の名称は
A:湯檜曽方面からの呼称。藤原方面からは広河原岳。新潟側からはジャンクションピークを朝日岳、清水岳と呼ぶ。

Q:仙ノ倉山の名の意味は?
A:新潟県側のセンノクラ谷から導かれた名。土樽では残雪模様から三の字と呼んでいた。残雪が三の字(苗代)、二の字(豆蒔)、一の字(田植え)を意味した。

2、自然事象
Q:群馬県側と新潟県側との分水嶺とは?
A:主稜線は県境で、群馬側に降った雨水は湯檜曽川などから利根川に合流し太平洋に、新潟側に降った雨水は登川などから魚野側、信濃川を通り日本海へ至ります。

Q:県境主稜線(越後山脈=越後駒ヶ岳~浅間山)は、日本の脊梁山脈の一部ですか?
A:主稜線は日本海側と太平洋側を分ける脊梁山脈です。

Q:谷川連峰の主稜線の群馬県側と新潟県側とでは何で景観が違うのですか?
A:非対称山稜といい、群馬県側は北西の季節風により冬季に雪崩が多発し、谷が削れ急峻な岩壁を形成しています。これは、明治大学名誉教授小畴尚氏により氷河のモレーンの痕跡が唱えられ、マチガ沢・一ノ倉沢・幽ノ沢に氷河があったとされます。また、地質学者からは十数本の岩脈が氷河時代を中心に崩れ急峻な岩壁をつくったとされます。

Q:出合の意味は?
A:川と川が合流する場所、川と支流の沢が合流する場所を言いますが。国道と支流の沢の合流点も指すようにも使われていますがどうでしょうか。
土合は川幅が極端に狭まった場所であるとのことが町史に記載されています。

Q:マチガ沢出合のまむし岩はいつ出来たのですか?なぜまむし岩なのか?
A:エコツーリズム推進協議会の地質モリタリング調査でアメリカのジオスペース・サイエンス社の放射年代測定により270万年前の結果ができました。
ロッククライミングの練習岩で利用され、上部にまむしがいたので呼ばれるようになったのではと思いますがはっきりしません。

2、登山路
Q:谷川岳の登山路で早期にできた登山路は?
A:信仰登山で利用された天神尾根以外では、西黒沢からガレ沢をつめ、ガレ沢のコルに至り西黒尾根を利用するコースで昭和6年完成。阿部一美山岳会長が貢献。一般的に登山者が利用していたのを整備。

Q:白毛門~朝日岳~清水峠~武能岳~谷川岳間の登山路が整備されたのはいつ?
A:昭和11年7月完成。幽ノ沢で遭難した慈恵医大山岳部福田氏の父が登山路整備費を寄付し地元の青年団が奉仕し完成させました。この頃、大倉尾根コースも開かれている。

Q:巌剛新道・いわお新道を整備したのはいつ?
A:昭和29年整備。水上営林署長竹花巌と事業課長田中剛が整備し名を残しています。

Q:西黒尾根コースの整備は?
A:昭和13年整備。初代水上山岳会長阿部一美と中島喜代志が協力し整備。

Q:田尻尾根コースの整備は?
A:昭和14年に中島喜代志が整備。

Q:北面の登山路整備は?
A:吾策新道(昭和28年)・平標新道(昭和30年)は高波吾策が整備。蓬峠越道の古道を昭和18年吾策が整備。茂倉新道は大正11年頃鉄道省の測量隊が利用し、高波吾策が土樽村の補助で整備。

3、その他
Q:肩の小屋はいつ出来たか?
A:昭和16年8月落成。水上山岳会長阿部一美の提唱で日本山岳会群馬県警防会議後援に
より完成。1泊1円。小屋責任者は吉田定次、阿部磯太郎・磯内親子が5~10月常駐。その後、破損により群馬県が昭和26年9月作り直した。

Q:谷川岳に最初登った人は?
A:大正9年7月に藤島敏男・森喬が案内人剱持政吉を伴い、茂倉岳、谷川岳を登った。

Q:谷川岳登山指導センターは何時できたか?
A:昭和41年12月17日に谷川岳遭難防止条例が群馬県議会で成立し、昭和42年1月に施行。非常勤の指導センター職員が配置され登山届けの受付等、安全登山の指導を開始しました。

Q:虹芝寮(成蹊大学山の家)はいつ出来たか?
A:昭和7年9月に完成。当時の成蹊高校学生が主体となって、用地検索、用地交渉、設計をし学校当局は予算を負担。こういう校風。お掃除哲学が今も活きていて“来た時よりも少しだけ綺麗にしていこう“。渡辺兵力など有名な登山者を輩出。過去3度改築。

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