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湯檜曽川沿いの新道(清水越新道)はいつから呼ばれるようになったか?

七ツ小屋山・清水峠方面

七ツ小屋山・清水峠方面

土合橋から湯檜曽川に沿って清水峠方面へ延びている道は、通称「新道」と呼ばれておりますが、次のような公的な書類で使われております。また、清水越道は江戸時代初期から口留番所が湯檜曽、清水に設置され、主に近隣の村等が相互に特別な許可を取って行き来するのみでした。そのルートは湯檜曽ー湯檜曽川に沿って湯檜曽川支流武能沢出合ー白樺尾根ー蓬峠ー七ッ小屋山西側ー大源太山と七ツ小屋山との鞍部ー丸ノ沢ー登川に沿って清水であることが、清水の阿部和義氏に伝わる江戸時代などの絵図、明治11年の岡村貢らの調査絵図、新潟県歴史の道調査報告書などで確認できます。他には土樽越や中里越が使われていました。また、清水越新道開削を決定したのは、時の熊谷県権令河瀬秀治で明治6年測量開始し翌7年10月に巾6尺、距離7里17町余の山岳道路を完成させました。

a,群馬布達 明治8年第19号(明治8年2月5日)
-沼田通リ此新道ヲ経三国街道六日町迄ー
阿部幸久所蔵資料

b,御約定書之事 (明治9年12月17日)
-今般新道三ヶ駅(清水・長崎・三郎丸)ー
上田村郷土史資料

c,清水越新道種種書留 (明治9年7月17日)
内国通運会社沼田分社及び真庭・上牧・小日向・湯原・湯檜曽継立所が熊谷県令(現知事)宛てた一ノ倉沢出合付近に家屋6棟建立為の金銭借用書、約定書
小日向区有文書

d,新設国道(国道8号)予定地踏査 (明治11年10月16~18日)
新潟県役人(新潟県白上大書記官、同県7等属松浦義方、他3名)と道案内役として同伴した岡村貢第13大区長及び清水、関、土樽各区長が清水越新道(丸ノ沢ルート)と土樽越を調査した報告書および絵図
新潟県歴史の道調査報告書第3集

この清水越新道が整備された背景には、江戸時代末期に再三にわたって行なわれた清水越古道再開削運動があったのです。それは、越後・庄内米を江戸へ最短ルートで運搬しようと、天保15年の大川領平を皮切りに筧水翁、吉川忠八、沼田藩、会津藩が幕府に陳情し、幕府でも2度現地調査を行ないましたが実行されませんでした。

参考までに、戦国時代やそれ以前に清水から清水峠に至るルートとして、上記以外に冬路ノ沢(直沢=すぐさわ)、十五里尾根、また、粟沢に抜ける道が有り、特に戦国時代に重要視されたのが粟沢に抜けるルートで、清水城址と粟沢の寺林砦址の配置や上杉家文書(米沢市資料館)で判ります。

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